My football life〜僕の歩んできた人生〜
生い立ち
僕たち3人は誰が1番点を取れるのか?誰が1番小学生からボールを奪えるのか?などの勝負をすることで体の大きい相手や自分よりも身体能力がある相手にどうやれば勝てるか?と考えるようになりました。
ぼくたち3人の楽しみは、『1番点を取れるのか?』『誰が1番小学生からボールを奪えるのか?』などを競い合うことでした。
その勝負のなかでそれぞれが『体の大きい相手や自分よりも身体能力がある相手にどうやれば勝てるか?』ということを子供なりに考えながらサッカーをするようになりました。
悪ガキ3人トリオ
僕は3歳で茨城県古河市にあるアズーSCでサッカーを始めました。父の知り合いが協力して作ったサッカークラブです。
練習場は家の庭を開拓し、そこにホームセンターで買ってきた芝生を敷き詰めたという手作り練習場。
それは協力者の人の家でしたが結構、庭が広く小学生用コートが作れるくらいはあったと思います。
その1期生となった僕ですがまだ3歳。笑 スクール生も僕を含めて3人だけ。
しかも他の2人は小学生だったので僕は毎日自分の2倍以上大きい先輩たちに鍛えられてきました。
アズーでサッカーを初めてから無我夢中でサッカーをしてきました。そして僕が幼稚園年長になった頃には15人くらいにスクール生が増えました。
サッカーとの出会い〜幼稚園〜
3歳ではじめたサッカー
ぼくは、3歳の時に茨城県古河市にある『アズーSC』でサッカーを始めました。
『アズーSC』は、父と父の知り合いが協力して作ったサッカークラブで、立ち上げたばかりのサッカークラブだったので練習場は父達の手作り…。
知り合いの家の庭(小学生用コートくらいの広さ)に芝生を敷き詰めただけの手作り練習場だったのですが、当時は芝生でサッカーができるのが嬉しくて毎日サッカーをしていました。
アズーSCの1期生は、3歳のぼくと2人の小学生の合計3人でスタートしました。
ぼく以外は小学生だったので、毎日自分の2倍以上の選手と練習をし鍛えられていました。
そんな3人から始まったアズーSCは、ぼくが6歳(幼稚園年長)になるころにはスクール生が15人に増えていました。
はじめての同級生チームメイトができた
同級生も2人増えて毎日3人で競うようになりました。
のちに悪ガキ3人トリオになる、
・ノブ
・リュウジ
・セイヤ
3人ともクラスでは前から1、2番目に並ぶくらいチビでしたが負けん気だけは誰よりも強かったです。
スクール生が増え大会とかにも出れるようになったアズーSCでU-10の低学年の大会に出る時は僕たち3人トリオが幼稚園生ながらに小学生たちに勝つなんてこともありました。
僕たち3人は誰が1番点を取れるのか?誰が1番小学生からボールを奪えるのか?などの勝負をすることで体の大きい相手や自分よりも身体能力がある相手にどうやれば勝てるか?と考えるようになりました。
そう考えられるようになったのもコーチや親からのアドバイスがあったからだと思います。それは自分らしいプレーができた時だけ褒めてくれるです。
試合に勝ってもゴールを決めても自分らしいプレーができていなければ褒めてくれません。
だから僕たちはどうやれば自分たちらしいプレーをして試合に勝てるかを相談して試合に望むようになりました。
そういう風に導いてくれたコーチ、親の教えは今でも心に残っています。
そのおかげかその3人トリオは小学生相手でもなかなか負けなくなっていきました。
その名は周りにも徐々に知られていくことになっていることも知らずにーーー。
苦しい時代を過ごした小学生
小学生になった僕たちはさらに力をつけて地元の年上たちをまかしていきます。
ですが小学2年の春過ぎに僕は栃木県野木町の佐川野小学校に転校することになりました。
それと共にアズーをやめその小学校のサッカー部に入ります。ですがその学校は全学年1クラスという小さな小学校。
1人の小さな少年の夢を叶えようとするアツい気持ちは周りの選手にはわかってもらえなかったんです。
アズーで悪ガキトリオと一緒に戦っていたし歳の離れた先輩たちに鍛えられていたせいでその学校にいるサッカー部の子たちに物足りなさを感じていました。
そのストレスは次第に僕の態度にも現れていたのかなと思います。
そのせいでどこかにズレが生じてしまい小学5年を過ぎた頃から同じサッカー部の人からいじめをうけるようになりました。
最初は何が起こったのかわからなかったです。学校に行くとみんなから避けられる感じがしたんです。
でも気のせいかと思い込んで話しかけてみるけどなぜか無視される。そんな日々が続きようやく僕はいじめにあってるんだと気付きました。
部活の練習でも同級生の方には混ぜてもらえなかったりパスを出してもらえなかったり。
でもその辛さをどこにぶつけていいかもわからず一人苦しむ毎日でした。
「自分がいじめを受けてる」なんてことを誰に相談すればいいのか?わからなかった。
学校生活ではサッカー部以外の人と、サッカー部の練習は同級生以外の人に話をかけて仲良くなる努力をしていました。
今まで話したこともなかった人と仲良くなっていくことが少しずつですが楽しくなっていきました。
今までは休み時間になるとみんなと一緒に外に飛び出してサッカーをしたり遊具で遊んだりしていましたがいじめが始まって以降は教室に残り新しくできた友達と将棋をしたり囲碁をしたりしてました。
体を動かすことも楽しいけどボードゲームも意外と楽しいって思いました。今思うといじめを受けたおかげで新しいことにチャレンジするということを小学生ながらに学ぶことができたなと思っています。
ただその生活の変化に担任の先生はすぐに気付きました。ある日、僕は先生に呼び出されて「何があったんだ?正直に話してみな」と優しく言ってくれて僕は号泣しながら今までのことを全て話しました。
やっと心のよりどころを見つけた感覚です。
先生のおかげもあり僕たちは再び仲良くーーー。
なんてことは僕にはできませんでした。先生に泣きながら全てを打ち明けたことで吹っ切れたのもあると思います。
向こう側はたまに話しかけてくれるようになったり練習にも混ぜてくれるようになりましたが僕から断るようになっていたんです。
こんな奴らと練習するくらいだったら1人の方がマシ。
今の俺にはサッカーがあると自分に言い聞かせて。
そんなある日、ヴェルディss小山があるという情報を得て、スクール生として通うことにしました。それが小学6年の夏でした。
初めてスクールに行く車の中で親から気づけなくてごめんな。と言われた時、僕は涙を堪えるのが精一杯でした。
小学校のサッカー部にも在籍していましたが同じ志をもった子供たちの集まるスクールはめちゃくちゃ楽しかったので自然とスクールに行く回数は増えていきました。
再会と叶えられなかったユース昇格
スクールとはいえヴェルディの下部組織。
教えるコーチやスタッフは元プロやそこに携わってきた経験のある人。
通う子供たちは皆、プロサッカーを夢見る少年で溢れていました。そんな場所でサッカーをできる喜びはとてつもなく大きかったです。
そしてついに中学生になりヴェルディのジュニアユースの栃木県支部であるヴェルディss小山に正式に入団をし、人生で初めてJリーグという夢が身近に感じられる場所で毎日、練習をしにいくのが楽しくてしかたなかったです。
1学年20人〜30人いる中でスタメンを勝ち取るために切磋琢磨する日々は自分にとってかけがえのない時間でした。
大会ではちゃんと各学年ごとにカテゴリー分けされており茨城県古河市にの河川敷にあるリバーフィールドで行われる時はさまざまな県からチームが集まりレベルの高い戦いをする。
そんな中、聖矢!と呼ぶ声が。そこにはあのノブとリュウジがいたんです。同じ大会にアズーSCが出ているではないか!
今から対戦する相手がアズーだったんです。6年ぶりの再会に僕たちはいろんな話をしました。
ですが試合が始まってしまえば敵。友達であろうが勝つためには情は必要ない。
初めての対戦では変な感じがしていましたが慣れればお互い削りあったり、試合中に言い合いをしたりと負けず嫌いは変わっていなかったです。
小さい頃から鍛え上げられていた僕は1年生の頃から10番を任されました。
(学年ごとに分けられていたため1年生だけの10番)初めて自分が10番を任されることで出てくる責任感と自覚。
今までは自分のためだけにやっていればよかったサッカーもエースの自覚と責任が出てからはチームのためにという気持ちになっていった。
小学生の頃1人でサッカーをしていた頃とは全部違う。
信じれる仲間、信じてくれる仲間がいるんだ!という思いでサッカーをしていました。
その中でも同じ中盤をやっていた鯨岡という選手とはずっと一緒にいたのを覚えてます。
彼も根っからの負けず嫌いで誰がみてもわかる悪ガキ。類は友を呼ぶとはこのことですね。
最初に練習場に来て誰よりも長く練習をしてから帰るという感じでした。
クラブチームだったためほとんどの人が親の送迎でしたが練習終了時間に親が迎えに来ても親を待たせてずっと自主練習をしていました。
ナイター付きでしたがナイターがついてる間はボールを使って、ナイターが消えてからは走り込みや筋トレをという感じでした。
何も言わず待ってくれていた親には感謝です。
そこで実際にJリーグを見に行ったり、トップチームの練習を見たりして僕はより一層Jリーガーという夢を強く思うようになりました。その1番の近道がユース昇格でした。ですが現実は甘くはなかった。多くの選手が集まるセレクションを受けた結果、僕のもとに合格の通知は来ませんでした。当時の僕にとって立ち直るのに時間のかかる挫折となりました。
初の全国優勝と挫折
ヴェルディユースに昇格できなかった僕は千葉県の流経大柏高校に入学します。当時はまだ無名高で千葉といえば市船!という時代でした。ですが入ってみるとレベルの高い選手たちが常にライバルとして切磋琢磨してるので僕にとって新しい挑戦ばかりでした。親元を離れて寮生活をするという面でも刺激的な毎日を過ごすことができていました。そして、高校3年ではインターハイ全国3位、高円宮杯と高校サッカー選手権で2冠を達成しました。ですが僕はベンチから試合をみる時間の方が長かった。やはりここでも悔しい思いと共に高校生活を終えることになってしまいました。
全ての思いをかけて大学へ
史上最強
流経大柏高校、史上最強と言われた僕たちの世代は相当な期待と共に系列校である流通経済大学へと進学します。期待が大きいという気持ちのせいで僕は少し天狗になってしまい、そこで1年生の時に厳しい現実を思い知ることになりました。Jリーグのクラブと練習試合をしても負けない先輩たちは僕の想像を遥かに超えていたのです。「こういう選手がプロに行くんだな」と肌で感じることで少しずつ自分の意識が変わっていったのです。
大怪我
変わることのできた自分と成長できた自分を評価してもらい2年でトップチーム昇格を経験、3年生からはスタメンで大学サッカーリーグに出流ようになりました。その矢先です。試合中のアクシデントで膝の内側側副靭帯を損傷してしまいました。あとちょっと衝撃が強ければ断裂と医者に言われました。せっかく掴みかけたチャンスなのにーーー。そこから3ヶ月リハビリをして復帰までしましたが思うようなプレーができず、徐々にメンタル状態が安定しなくなってきました。要するにグレていました。
諦めなかったプロという道
グレていた僕は3年の1年間を棒に振ってしまったと言っても過言ではありません。4年生になりどうにかその穴を埋めようとしますがやはり現実は甘くないです。4年の夏からは2軍でのプレーを余儀なくされ、Jリーグという夢は到底無理でした。監督やコーチからは当時、JFLや社会人リーグに行くことを勧められたがサッカーだけで飯を食っていくことしか頭になかった僕はその話を断り続けました。その気持ちが伝わったのかコーチからタイに行くか?という提案があったのです。即答で行く。と僕は答えました。
壮絶な海外挑戦
大きな夢を持って渡航
タイに行くと決めてすぐに航空券をとり大学4年の12月にタイに飛びました。そして、タイにいる知り合いを紹介してもらいその方にお世話になりながら何チームもテストに行くことになります。ですがその前に空港についた僕は移動手段なんて知らない、というかまだガラケーを使っていてパソコンもない。海外に来て連絡ができない僕は全く喋れない英語で空港から行き先のホテルまで3時間くらいはかかりました。さらに現地についていざ練習参加をしようとしたらその年に洪水がバンコクで起きていて11月末に終わるはずだったリーグ戦が3ヶ月延長していたのです。リーグが終わっていないため練習に行ってもほとんど相手にされませんでした。
ラストチャンス
現地で活躍する選手のアドバイスで1回日本に帰国することになりました。それが1月の半ばです。約2週間日本に戻りまた2月の頭に渡航しました。ラスト1ヶ月のみのチャンスです。ですがそこから2週間練習参加したクラブと契約できずに練習参加するチームもなくなってしまいもうダメかなと心の中で思っていました。そこに舞い込んできたテストの話。チームに合流するはずだった外国人選手の到着が遅れてる。ビザが間に合うかわからないからもしかしたら外国人枠が1枠空く可能性がある。その話が来たのは2月23日。移籍のマーケットが閉まる2週間前です。ということでラストチャンスにかけて2月25日の練習試合に飛び込みで行き監督から高評価を受け、契約することになりました。たった1回の練習試合に出ただけで決まることもあるのか。という感じでしたが何よりプレーするチームが決まった。プロになれたという思いが強かったです。結局その外国人選手がタイに来ることができなかったため僕が最後の枠に滑り込みました。
最後に
将来のことで悩んでる君たちへ
今、多くの若い選手がプロになることを夢見てサッカーをしていると思いますが結局最後まで残る選手というのは諦めなかった選手が多いです。Jリーガーになれないとわかった時、諦めてしまうのか、それともそれを糧に海外に飛び出すのか。そこでプロサッカー選手という夢を勝ち取った選手は多くいます。それは実力じゃない。君たちが海外に行ってプロになるんだ!という気持ちを持っていたから。その1歩目さえ出すことができればその先には必ず明るい未来は待っている。だからこそ夢を諦めないで欲しい。「若い」という素晴らしい才能を持っていうのだからそれを十分に生かして自分の夢に向かって突き進んで欲しいなと思います。
最後まで読んでくれてありがとうございました。これからもよろしくお願いします。